「材料費の値上げは通ったのに、労務費の上昇分だけはどうしても言い出せない」。
中小製造業の経営者から、最も多く聞く悩みのひとつです。
労務費の価格転嫁とは、賃上げや社会保険料の負担増によって上昇した人件費(労務費)の増加分を、取引価格に反映させることを指します。
中小企業庁が令和8年(2026年)6月に公表した「価格交渉促進月間(2026年3月)フォローアップ調査」によると、コスト全体の価格転嫁率は54.2%、このうち労務費の転嫁率は50.0%にとどまりました。
上がった人件費のうち、およそ半分はいまだに中小企業側が身銭を切って負担している計算になります。
一方で、令和8年(2026年)1月1日に施行された取適法(中小受託取引適正化法)では、価格協議に応じない一方的な代金決定が明確に禁止行為とされました。
制度の後押しは、かつてないほど整っています。
あとは「いくら上げてほしいのか」を自社の言葉と数字で示せるかどうかです。
本記事では、労務費上昇分を金額に落とし込む3つの計算方法と、実際に取引先へ切り出すための5つのステップを、中小製造業の実務目線で解説します。
なぜ「労務費だけ」転嫁が進まないのか
原材料費やエネルギーコストの値上げには応じてもらえても、労務費だけは切り出せていない。
そんな状態が続いている企業は少なくありません。
まずは、労務費の転嫁が構造的に難しくなっている理由を、データと現場感覚の両面から整理します。
数字で見る労務費転嫁の遅れ
中小企業庁が受注側中小企業を対象に実施している価格交渉促進月間のフォローアップ調査では、コスト要素ごとの転嫁率が毎回公表されています。
令和8年(2026年)6月に公表された最新の調査結果では、価格転嫁率は全体で54.2%となり、コスト要素別では原材料費が55.7%、労務費が50.0%、エネルギーコストが48.9%でした。
価格交渉そのものは9割を超える企業で行われており、「交渉のテーブルにはつけているが、労務費の分だけ十分に反映されていない」という状況が浮かび上がります。
| コスト要素 | 価格転嫁率 | 交渉で使う主な根拠 |
|---|---|---|
| 原材料費 | 55.7% | 仕入先からの値上げ通知書、市況価格の推移 |
| 労務費 | 50.0% | 最低賃金の上昇率、春季労使交渉の妥結額 |
| エネルギーコスト | 48.9% | 電力・燃料の請求書、単価改定通知 |
| コスト全体 | 54.2% | ― |
※出典:中小企業庁「価格交渉促進月間(2026年3月)フォローアップ調査結果」(令和8年6月26日公表)
原材料費との決定的な違いは「証憑があるかどうか」
原材料費やエネルギーコストの上昇には、仕入先からの値上げ通知書や電力会社の請求書という、社外の第三者が作成した証憑(しょうひょう=取引を裏づける書類)が存在します。
取引先に提示すれば「たしかに上がっていますね」と一目で共有できるため、交渉の入口に立ちやすいのです。
これに対して労務費の上昇は、自社の給与テーブルの改定や賞与の増額といった、社内の意思決定の結果として発生します。
「うちが賃上げを決めたのだから、うちが負担すべきではないか」という遠慮が生まれやすく、そもそも根拠として何を出せばよいのかが分からない、という壁にぶつかります。
後述するとおり、この壁は国の指針によってすでに取り払われています。
労務費の上昇は、公表されている統計を根拠にしてよいと明記されているのです。
先送りが招く「賃上げできない・人が採れない」の悪循環
労務費の転嫁を先送りにすると、人件費だけが上昇し、その分がそのまま利益の減少として自社に残ります。
利益が細れば翌年の賃上げ原資が確保できず、賃上げを見送れば採用でも定着でも不利になり、結果として現場の人手不足がさらに深刻になります。
令和8年度(2026年度)の地域別最低賃金は全国加重平均で1,177円となり、前年度の1,121円から56円、率にしておよそ5.0%引き上げられました。
この水準の上昇が毎年続く前提に立てば、転嫁の先送りは「今年だけの我慢」では済まなくなります。
労務費の価格転嫁は、値上げ交渉の一種ではなく、賃上げと人材確保のための経営課題として位置づける必要があります。
令和8年(2026年)、交渉の前提はすでに変わっている
労務費の転嫁を「お願い」ではなく「正当な要請」として伝えるうえで、制度の後ろ盾を理解しておくことは大きな武器になります。
ここ数年で、受注側が交渉に臨むための環境は明確に整備されました。
取適法で「協議に応じない一方的な代金決定」が禁止行為になった
令和8年(2026年)1月1日、下請法が改正され、名称も「中小受託取引適正化法(通称:取適法)」へと変わりました。
この改正で新たに追加された禁止行為のひとつが、「協議に応じない一方的な代金決定」です。
公正取引委員会の資料では、中小受託事業者から価格協議の求めがあったにもかかわらず、協議に応じなかったり、必要な説明を行わなかったりするなど、一方的に代金を決定することが禁止される、と説明されています。
つまり、労務費の上昇を理由に価格協議を申し入れたにもかかわらず、取引先がそれを無視して従来価格を据え置くことは、法律上の禁止行為に該当し得るということです。
あわせて、従来の資本金基準に加えて従業員基準(300人・100人)が追加されたため、保護の対象となる取引の範囲も広がりました。
労務費指針の12の行動と、受注者に求められる4つの行動
もうひとつの土台が、令和5年(2023年)11月29日に内閣官房と公正取引委員会が公表した「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」(以下、労務費指針)です。
この指針は、発注者6つ、受注者4つ、発注者・受注者の双方2つの合計12の行動を示しています。
発注者向けの行動ばかりが注目されがちですが、受注者である中小企業に対しても、次の4つの行動が求められている点は見落とされがちです。
| 受注者の行動 | 指針が求めている内容 | 実務での意味 |
|---|---|---|
| ①相談窓口の活用 | 国・自治体や商工会議所などの相談窓口を活用し、情報を集めて交渉に臨む | 自社だけで抱え込まず、無料で使える支援機関を交渉準備に組み込む |
| ②根拠とする資料 | 最低賃金の上昇率、春季労使交渉の妥結額やその上昇率などの公表資料を用いる | 社内の給与データを開示しなくても交渉できる |
| ③値上げ要請のタイミング | 定期的な価格交渉の時期や、発注者の繁忙期など交渉力が比較的優位なタイミングを活用する | 「いつ言うか」を戦略的に選んでよい |
| ④自ら希望額を提示 | 発注者から価格を提示されるのを待たず、自社の希望価格を提示する。自社の発注先やその先の労務費も考慮する | 受け身で待つのではなく、金額を先に示す |
特に重要なのが行動④です。
値上げ幅を取引先に決めてもらうのではなく、自社から金額を提示することが求められています。
だからこそ、次章以降で扱う「いくらになるのかを自社で計算する力」が交渉の成否を分けることになります。
「公表資料でよい」と国が明言したことの意味
労務費指針は、発注者側の行動③として、労務費上昇の理由の説明や根拠資料の提出を受注者に求める場合は公表資料に基づくものとし、受注者が公表資料を用いて提示した希望価格については合理的な根拠があるものとして尊重すること、と定めています。
これは受注者にとって非常に大きな意味を持ちます。
自社の決算書や給与台帳といった内部情報を開示しなくても、公表された統計を示せば「合理的な根拠」として扱われるということだからです。
さらに指針では、公表資料に基づく説明をしているにもかかわらず、それに加えて詳細な内部情報の提出を交渉の条件とし、示されないことを理由に協議しないまま価格を据え置くことは、優越的地位の濫用や買いたたきとして問題となるおそれがある、とされています。
「根拠を出せと言われても、原価を全部見せるのは避けたい」という懸念は、この一文によって解消されていると考えてよいでしょう。
根拠に使える公表資料と、令和8年(2026年)時点の数値
労務費指針が「使ってよい」と明示した公表資料は、いずれも無料で誰でも入手できるものばかりです。
ここでは、令和8年(2026年)9月時点で交渉に使える具体的な数値を確認しておきます。
地域別最低賃金:全国加重平均1,177円へ
令和8年(2026年)7月に中央最低賃金審議会が示した引き上げ額の目安は、Aランクが54円、B・Cランクがそれぞれ56円でした。
これを受けた各都道府県の答申の結果、令和8年度(2026年度)の地域別最低賃金は全国加重平均で1,177円となり、前年度の1,121円から56円、率にして約5.0%の引き上げとなりました。
現在の目安制度が始まった昭和53年度(1978年度)以降で2番目に大きい引き上げ幅であり、多くの都道府県で令和8年(2026年)10月から発効します。
最低賃金は都道府県ごとに金額と発効日が異なるため、交渉資料には自社の事業所が所在する都道府県の金額と発効日を明記することをおすすめします。
春季労使交渉:連合の最終集計で5.01%、中小は4.69%
もうひとつの代表的な根拠が、春季労使交渉(春闘)の妥結額とその上昇率です。
連合が令和8年(2026年)7月1日時点でまとめた最終集計では、平均賃金方式で回答を引き出した5,368組合の加重平均で、賃上げ額16,400円・賃上げ率5.01%となり、3年連続で5%台となりました。
このうち組合員数300人未満の中小組合3,831組合に限ると、賃上げ額12,866円・賃上げ率4.69%です。
取引先が大企業である場合、その企業自身も5%前後の賃上げを実施している可能性が高く、「御社と同水準の賃上げを当社も行っている」という文脈で説明できる点が、この資料の強みになります。
どの資料を使うべきかの選び方
公表資料は複数あり、どれを使うかによって説明のしやすさが変わります。
自社の状況に近く、かつ取引先が反論しにくいものを選ぶことがポイントです。
| 公表資料 | 令和8年(2026年)時点の数値 | 適している場面 |
|---|---|---|
| 地域別最低賃金の上昇率 | 全国加重平均1,177円(前年度比+56円、約+5.0%) | パート・時給者の比率が高い現場、賃金水準が最低賃金に近い場合 |
| 春季労使交渉の妥結額・上昇率 | 全体5.01%(16,400円)/300人未満4.69%(12,866円) | 月給制の正社員が中心の現場、取引先が大企業の場合 |
| 毎月勤労統計調査の現金給与総額 | 2026年6月分で前年同月比+3.4%(規模5人以上) | 賞与を含めた年間の支給総額ベースで説明したい場合 |
| 公共工事設計労務単価 | 職種別に国土交通省が公表 | 建設関連の職種を含む業務を受託している場合 |
| ハローワークの求人票・求人情報 | 同業他社の提示賃金 | 採用競争の激化を具体的に示したい場合 |
いずれの資料も、交渉資料には出典と公表年月を明記してください。
出典が書かれているだけで、資料の受け止められ方は大きく変わります。
労務費上昇分を金額にする3つの計算方法
根拠となる資料が揃ったら、次はそれを「1個あたり何円」「1か月あたり何円」という金額に翻訳する作業です。
計算のアプローチは大きく3つあり、どこから手をつけられるかは自社のデータの整備状況によって変わります。
方法A:公表資料から求めるマクロ方式
最も手軽なのが、現行の製品単価に労務費比率と労務費上昇率を掛け合わせる方法です。
計算式は、値上げ額=現行製品単価×労務費比率×労務費上昇率となります。
たとえば現行単価が5,000円、製品原価に占める労務費比率が25%、労務費上昇率が5.0%であれば、5,000円×25%×5.0%=62.5円が値上げ額となります。
この方式の利点は、労務費比率さえ分かればすぐに計算できることです。
一方で、労務費比率の根拠を問われたときに答えられないと交渉が止まります。
労務費指針が「尊重する」としているのはあくまで公表資料に基づく上昇率の部分であり、自社製品の労務費比率については個別の交渉余地が残るためです。
言い換えると、上昇率は国が用意してくれていますが、比率は自社で用意するしかありません。
ここが次の方法Bにつながります。
方法B:アワーレートから積み上げる時間単価方式
労務費比率を自社の数字で説明できるようにするのが、アワーレートを使う方法です。
アワーレート(人)とは、作業者1人を1時間稼働させるためにかかる費用のことで、賞与や法定福利費を含めた年間人件費を、年間の稼働時間(就業時間×稼働率)で割って算出します。
計算式は、値上げ額=1個あたりの加工時間×アワーレートの上昇額です。
先ほどと同じ条件で確認します。
1個あたりの加工時間が段取り時間の按分を含めて25分(0.4167時間)、アワーレートが3,000円から5.0%上昇して3,150円になった場合、値上げ額は0.4167時間×150円=62.5円となります。
方法Aと同じ金額にたどりつきました。
労務費比率25%という数字が、実は「加工時間0.4167時間×アワーレート3,000円=1,250円が単価5,000円に占める割合」であることを、方法Bは自社の数字として説明できる形にしているわけです。
アワーレートを整備しておくと、比率の根拠を聞かれても図面ごと・工程ごとに説明できるため、交渉の耐久力が大きく変わります。
方法C:全社の労務費増加額を時間で割る方式
製品ごとの加工時間が整理できていない場合は、全社の数字から入る方法もあります。
計算式は、時間あたり上昇額=年間労務費の増加額÷年間の直接稼働時間です。
年間労務費が1億2,000万円で5.0%上昇するなら増加額は600万円、年間の直接稼働時間が40,000時間であれば、600万円÷40,000時間=150円が時間あたりの上昇額になります。
この150円という数字は、方法Bで使ったアワーレートの上昇額と一致します。
あとは製品ごとの加工時間を掛ければ、1個あたりの値上げ額が求められます。
なお、分母となる稼働時間には注意点があります。
品質管理や生産管理などの補助人員の人件費は、分子である労務費には含める一方で、分母の直接稼働時間には含めないのが実務上の考え方です。
補助人員の時間まで分母に入れてしまうと時間単価が薄まり、本来請求できるはずの金額を自ら削ることになります。
| 比較項目 | 方法A マクロ方式 | 方法B 時間単価方式 | 方法C 全社積上げ方式 |
|---|---|---|---|
| 計算式 | 現行単価×労務費比率×労務費上昇率 | 加工時間×アワーレート上昇額 | 年間労務費増加額÷年間直接稼働時間 |
| 必要なデータ | 労務費比率、公表資料の上昇率 | 工程別の加工時間、アワーレート | 年間労務費、年間稼働時間 |
| 準備の手間 | 小さい | 中程度 | 中程度 |
| 反論への強さ | 比率の根拠を問われると弱い | 工程ごとに説明でき最も強い | 全社平均のため製品別の説明はしにくい |
| 向いている企業 | まず概算を出したい企業 | 個別原価計算を運用している企業 | 製品別データが未整備の企業 |
| 上記例での結果 | 62.5円/個 | 62.5円/個 | 150円/時間(=62.5円/個) |
3つの方式は、どの入口から入っても、根拠が正しければ同じ金額に収束します。
まずは方法Aで概算を出し、交渉の本番までに方法Bで裏づけを固める、という進め方が現実的です。
交渉を動かす5つの実践ステップ
金額が算出できても、すべての取引先に同じ内容で一斉に申し入れるのは得策ではありません。
限られた時間と交渉力をどこに配分するかを決めたうえで、順序立てて進めることが成果を分けます。
ステップ1・2:交渉先の優先順位を決め、根拠資料をつくる
最初に行うのは、取引先と製品の優先順位づけです。
自社の技術的な優位性の有無と、その製品の限界利益(売上高から材料費や外注費などの変動費を差し引いた利益)の高低を掛け合わせると、交渉の難易度が見えてきます。
| 区分 | 状況 | 交渉方針 |
|---|---|---|
| 優位性あり×限界利益が低い | 競合より安いか、競合はすでに価格改定済みの可能性が高い | 最優先で交渉する。成功可能性が最も高い |
| 優位性あり×限界利益が高い | 収益性も取引上の立場も比較的良好 | 積極的に交渉してよい。労務費分は確実に反映させる |
| 優位性なし×限界利益が低い | 最も難易度が高いが、放置すると赤字が拡大する | 関係が良好なら打診する。撤退・受注縮小も選択肢に入れる |
| 優位性なし×限界利益が高い | 値上げ余地は小さい | 無理に交渉せず、関係強化と品質・納期での差別化を優先 |
優先順位が決まったら、取引先ごとに1枚の資料をつくります。
盛り込むのは、対象製品、現行単価、労務費比率または加工時間、根拠とする公表資料とその出典、算出した値上げ額、改定希望時期の6項目です。
1枚に収めることで、担当者が社内で稟議を回しやすくなります。
相手の担当者が決裁権限を持っていない場合、その担当者が上司を説得するための資料になるという視点が重要です。
ステップ3:切り出すタイミングを選ぶ
労務費指針は、受注者の行動③として、交渉を申し出やすいタイミングや、発注者の繁忙期など自社の交渉力が比較的優位なタイミングを活用してよいと明記しています。
タイミングを選ぶこと自体が、指針で認められた正当な行動だということです。
実務上、狙い目は3つあります。
- 毎年3月と9月に設定されている「価格交渉促進月間」の時期。国が交渉を促しているため、切り出す理由として説明しやすい
- 最低賃金の改定が発効する10月の前後。地域別最低賃金という明確な根拠が更新されるタイミング
- 取引先の繁忙期や、新規図番の見積り依頼を受けた時期。代替の効きにくさが交渉力になる
逆に、相手の決算期直前や、取引先自身がコスト削減目標に追われている時期は避けたほうが無難です。
ステップ4・5:自ら金額を提示し、記録を残す
交渉の場では、労務費指針の受注者行動④のとおり、相手からの提示を待たずに自社の希望額を先に示します。
その際、「賃上げをしたので上げてほしい」という言い方ではなく、「令和8年度の地域別最低賃金は、全国加重平均で前年度から56円、約5.0%の引き上げとなりました。当社でも同水準の賃上げを実施しており、貴社向け製品では1個あたり62.5円の影響が出ています」というように、公表資料と自社の金額をセットで伝えます。
協議の結果、取引先が価格を据え置くと判断した場合、その理由を書面やメールなど記録に残る方法で回答することが求められています。
「予算が足りない」「自社も顧客に転嫁できていない」といった説明は、公正取引委員会の考え方に照らせば十分な理由とはされていません。
そして、労務費指針が発注者・受注者の双方に求めている行動として、価格交渉の記録を作成し双方で保管することが挙げられています。
面談後にお礼メールの形で協議内容を要約して送るだけでも、立派な記録になります。
次回の交渉の出発点にもなるため、必ず残してください。
よくある失敗と回避策
最後に、労務費の価格転嫁でつまずきやすい3つのパターンと、その回避策を整理します。
いずれも、事前に知っていれば防げるものばかりです。
「内部資料を出してほしい」で止まってしまう
公表資料に基づいて説明したにもかかわらず、原価の内訳や決算書の提出を条件とされ、そこで交渉が止まってしまうケースです。
前述のとおり、公表資料に基づく説明があるにもかかわらず、さらに詳細な内部情報の提出を交渉の条件とし、示されないことを理由に協議しないまま価格を据え置くことは、問題となるおそれがあるとされています。
この場合は、労務費指針の該当箇所を示したうえで、「公表資料に基づく水準としてご提示しています」と伝え、協議の継続を求めるのが基本対応です。
それでも協議に応じてもらえない場合は、取適法の禁止行為である「協議に応じない一方的な代金決定」に該当する可能性があります。
公正取引委員会や中小企業庁の相談窓口、商工会議所などの支援機関に相談する選択肢も持っておきましょう。
全社一律の値上げ率で押し切ろうとする
「全取引先に一律5%の値上げをお願いする」という進め方は、一見公平に見えますが、交渉の現場では機能しにくい方法です。
製品ごとに労務費比率も加工時間も異なるため、一律の率では過大な要請になる取引先と、過小な要請になる取引先が同時に発生します。
過大な側では「根拠が乱暴だ」と押し返され、過小な側では本来取れたはずの利益を取り逃がすことになります。
手間はかかりますが、主要な取引先や製品グループ単位で金額を算出することが、結果的には近道です。
一度上げて終わりにしてしまう
労務費の転嫁で最も多い失敗が、一度改定に成功したことで安心し、翌年以降の賃上げ分が反映されないまま単価が据え置かれてしまうケースです。
賃上げは毎年発生するコスト上昇であり、一度の改定で吸収できる性質のものではありません。
労務費指針でも、業界の慣行に応じて1年に1回や半年に1回など、定期的に協議の場を設けることが求められています。
年に1回、最低賃金の改定時期や価格交渉促進月間に合わせて単価を見直す社内ルールをつくり、アワーレートの更新とセットで運用に乗せることをおすすめします。
「交渉は毎年行うもの」という前提を取引先と共有できれば、翌年以降の心理的な負担は大きく下がります。
自社だけで根拠づくりから交渉まで進めるのが難しい場合は、専門家に伴走してもらう選択肢もあります。
まとめ
労務費の転嫁率は50.0%にとどまり、上昇した人件費のおよそ半分は、いまだに中小企業側が負担しています。
その一方で、制度はすでに交渉する側を後押しする形へと整いました。
最後に、本記事の要点と、明日からの一歩を整理します。
労務費の価格転嫁で押さえるべき3つの要点
1つ目は、令和8年(2026年)1月に施行された取適法によって、価格協議に応じない一方的な代金決定が禁止行為とされたことです。
2つ目は、労務費指針が最低賃金や春季労使交渉の妥結額といった公表資料を根拠として用いてよいと明示しており、社内の原価や給与データを開示しなくても交渉できることです。
3つ目は、上昇率は国が公表資料として用意してくれている一方で、自社製品の労務費比率だけは自社で用意するしかない、という点です。
交渉の成否を分けるのは、結局この3つ目にあたる自社の数字の整備状況だといえます。
明日から着手できること
まずは自社のアワーレートを算出し、主要な製品の労務費比率を把握するところから始めてみてください。
そのうえで、本記事で紹介した3つの計算方法のいずれかで金額を出し、取引先ごとに1枚の資料へ落とし込みます。
そして、毎年9月と3月は国が定める価格交渉促進月間です。
交渉を切り出す理由としてこれ以上ないタイミングが、年に2回、あらかじめ用意されています。
金額が見えた瞬間、交渉は「お願い」から「根拠のある要請」に変わります。
問い合わせ
当サイトでは、中小製造業を対象に、
経営数値の整理、原価計算の考え方、利益構造の見直し、現場と経営の接続といった観点から、個別の状況に即した整理と助言を行っています。
無料相談を含め、原価計算に関する確認や、各種コンサルティングについての問い合わせを受け付けています。
課題が明確でなくても構いません。
現状の違和感や悩みを言語化するところから対応していますので、問い合わせページよりご連絡ください。
筆者紹介

吉岡翼(中小企業診断士)
付加価値創造ラボ主宰
中央大学法学部卒。独立系コンサルティングファームにて東証プライム上場企業から中小製造業の経営支援に従事。
独立後は、「人と企業の理想を、現実に変える力に」を理念に価格転嫁や生産性向上の支援に注力している。

